「80年前にウクライナに声援をおくった木曽出身の女性について」
1895年(明治28年)に現在の木曽町福島に生まれた八木秋子という人がいます。松本市立女子職業学校(現在の松本美須々ケ丘高校)を卒業後、東京に嫁ぎますが、夫との関係に悩み、数回の家出を経て離婚。木曽に戻り、野尻や日義の小学校に勤めました。
やがて新聞社に勤め、無政府主義(アナーキズム)の運動に参加し、治安維持法違反に問われて懲役刑に処せられます。戦時中は満洲に渡り、苦労を重ねて帰国。戦後は母子寮に勤めながら、貧しい生活のなかで文筆活動を続けました。今ではほとんど忘れられた存在ですが、『八木秋子著作集』全3巻(JCA刊行)が残されています。
その著作集の第1巻に、「ウクライナ・コムミュン」という1930年に書かれた短編小説がおさめられています。第一次世界大戦後のロシア革命でボリシェヴィキ(共産党)のレーニンが権力を握りましたが、それはウクライナの人々にとっては、新たな独裁権力のもとにおかれる事態に他なりませんでした。八木は、ボリシェヴィキに反旗をひるがえしたマフノ率いる農民反乱軍を、共感をこめて描いています。自由を求めたマフノのことばを、八木は次のように描き出しました。
――無強権の自由社会(…)が不動の姿勢で胸に浸みわたり霊感づけられてさえいるならば、よしんば、最も近道をえらぶだけの見透しが欠けているにせよ、誤謬を犯すにせよ、結局は、(それを)実行することが出来る。
たとえ遠回りの道になってしまったとしても、自由社会を目指す者は最後に勝つ。八木秋子が80年前に書いたことを、今のウクライナ情勢を見ながら、私は改めてかみしめています。