「人種という言葉を当たり前のように使っていないか」

 私は折にふれて生徒たちに、「人種」というヒトの分類方法はとても恣意的なものであり、それは誰かを「劣った存在」と差別するまなざしとセットになってきた、と語りかけています。

 たとえば、世界史の教科書の「人類の誕生」の最後のくだりで、「肌の色を中心とした分類が人種」「文化・宗教を中心とした分類が民族」などといった解説が、昔はなされていましたが、今はなくなってきています。(でもおそらく全国の多くの世界史の授業では、残念ながら繰り返されているのではないかと推察します。)

 昨晩、読み終えたのが、坂野徹・竹沢泰子編『人種神話を解体する②科学と社会の知』(東京大学出版会、2016年)です。この論文集は、ゲノム解析が飛躍的に進む現代に、「人種」という差別的な発想が復活する可能性があると警鐘を鳴らしています。なぜかというと、ゲノム解析によって、ある個体集団と別の個体集団の「差異」が浮かび上がってくるとき、それが全体構造の中ではわずかな差異にすぎないものなのに、ことさらに差異を強調して「人種」を浮かび上がらせるような言説が登場してきているからです。(たとえば、日本人と朝鮮人と中国人を比較するとか。)

 現代の遺伝人類学・分子人類学の知見では、集団と集団の遺伝的な多様性よりも、ひとつの集団の中での遺伝的な多様性のほうが大きいということが明らかになっています。
 世界史の授業が、ひたすら人間集団を「分類する」ことを学ぶ以前に、こうした科学的知見に立脚することが必要だと私は考えています。
「人種という言葉を当たり前のように使っていないか」