「『変身』したのは自分なのか、周囲なのか」

第2夜(私の高校時代の愛読書・全7夜)
 フランツ・カフカ、池内紀訳「変身」(『カフカ小説全集4』所収、白水社、2001年、2800円)

 初めて『変身』を読んだのは、中学生の時。新潮文庫の高橋義孝訳でした。もちろん高校時代に再読し、『審判』『城』も含めてカフカの世界に嵌りました。大学1年生の夏休みに初めてレクラム文庫の原書で『変身』を読むことができました。カフカを読みたくてドイツ語を選択したからです。『変身』のドイツ語は音読すると、歌のようにリズムカルで美しいことがわかりました。

 教員になって、『変身』で世界史の授業を1時間くみたてました。カフカの原稿から翻訳した池内紀の仕事に、池内的カフカだという批判があることは百も承知で、心酔しました。演劇の脚本を書くとき、カフカの真似をして、結末を想定せずにまずは最初の一行を書いてみて、自分が虚構の世界に生きているように書き進めることにしてきました。プラハのカフカ記念館に二日続けて通い、二日とも「閉館中」で締め出されました。(ちなみに定休日ではなかった。)なぜか私の人生は、カフカがいつも間近にあったのです。

 ある朝、不安な夢からグレーゴル・ザムザが目を覚ますと、自分が「途方もない虫」に変身していることに気付きます。両親や妹は、虫になったザムザを嫌悪し、リンゴを投げつけます。そのリンゴはザムザの背中にめり込み、腐り、ザムザの身体も化膿して、やがて絶命していきます。家族は安堵して楽しそうに郊外に出かけていくのがラストシーンです。

 高校時代に『変身』を読んだときの衝撃は、主人公グレーゴル・ザムザが「途方もない虫」に変身したことよりも、そんなザムザを嫌悪するようになった家族の側の「変身」にありました。カフカは、装丁や挿絵でザムザの形象が描かれることを拒否し続けたのだと言います。まさしくザムザの「変身」は、そう認識するようになった家族の側の「変身」の物語なのです。ザムザは虫になった自分の姿にあまり衝撃をおぼえていないのですから。
 自分が目指す大学に入れなかったら、周囲の友人や家族は「変身」してしまうのではなかろうか。逆に自分が大学に入ったことで、周囲の自分に対する接し方が「変身」したとしたらそれも嫌だと思いました。

 教師になってからの世界史の授業では、20世紀になってからのユダヤ教徒迫害の歴史とか、共存してきた人々が民族の枠組みで互いを見ることになって虐殺し合う歴史などを見つめながら、「これって『変身』だよね」と高校生に語りかけてきました。

 そして現在、どうしようもなく新型コロナウイルスに感染してしまった人々が、排撃され、リンゴ(人格否定の言葉や暴力)を投げつけられる現実をまのあたりにして、人々が「変身」することのおそろしさを痛感しています。私たちは変身してしまった世界の姿を見て恐れおののいているのですが、実はそうした自分の心の変身のほうがもっと恐ろしいのではないでしょうか。
「『変身』したのは自分なのか、周囲なのか」