「満洲移民の歴史と『いま』をつなぐ」

 今日は、ロングホームルームの時間を使って、「平和と人権」について生徒の皆さんに考えてもらいました。私が講師になり、パワーポイントを使いながら全校放送という形で講話をし、生徒たちには考えたことをアウトプットしてもらいました。
 題して「未来をつくるために」。アジア・太平洋戦争の「終戦」からこぼれ落ちた人々を見つめながら、「いま」を考えるという話の組み立てです。アウトラインは以下のとおり。(後日、ホームページに講演録をアップします。)

(1)1945年8月15日は、「終戦」として記憶されているが、その日以降も戦争状態が終わらなかった人々がいる。日本領だった南サハリンの人々はソ連軍の攻撃の中を逃げまどい、真岡郵便局の電話交換手の女性9名が集団自決をした。彼ら・彼女らは、「忘れられた人々」である。私たちの社会には多くの「忘れられた人々」がいないか、考えてほしい。原爆の被爆者は救済されたのか。原発事故の避難者は帰還できたのか。「新しい生活様式」はすべての職業に可能なのか。

(2)8月15日が「終戦」にならなかった、もうひとつの代表例に、満洲移民がある。下伊那郡河野村の開拓団は、老人・女性・子どもだけが村に残され、敗戦による逃避行のなかで集団自決にいたった。一方、木曽郡読書村・吾妻村(現南木曽町)から満洲にわたった863名の移民たちの6割は、中国大陸で死亡した。大勢の犠牲を出したなかで、それでも必死に生きのびた人たちがいる。そのなかの一人、可児力一郎さんは、何人かの中国人のやさしさに救われて、帰国後は日中の架橋になろうと奮闘してきた。可児さんの軌跡を振り返ると、「どんな状況下でも何かできることがある」、そして「やさしさこそが未来をつくる」…そう言えるのではないか。

 実は今日は、現在88歳になる可児さんに来ていただいていました。ここで放送室のマイクをバトンタッチして、可児さんから蘇南高校の生徒へのメッセージです。

(3)自分の人生を振り返って、ふたつのことを考えている。ひとつは、先生と生徒の関係は、親子のようだということ。ふたつめは、「風雪の苦しみを経験した寒梅は、春になるといっぱいの花の香りをたてる」という中国のことわざのように、苦労を積み上げてこそ幸せをつかめるということ。このふたつのことを、皆さんに心を込めて贈る。

 以上が、20分の私と可児さんのリレートークでした。可児さんのお宅に私が伺って、戦争体験を伺い、次には可児さんが校長室に来て、私の平和人権教育の構想を聞いてくださり、スクラムを組んでの今日の講話でした。この講話は、私と可児さんの「対話」によってつくりだされたものです。
 戦争体験者の高齢化が進む中、体験者が単独で語ることから、「次の世代」との対話によって記憶の継承を目指す新しいスタイルを生み出したかったのでした。

 「語り」から「対話」へのモデルチェンジです。
「満洲移民の歴史と『いま』をつなぐ」