「教え子にバトンを渡す」

 出版社の編集者や研究者の方々から「東大の教養学部報に名前が出ていたよ」と最近よくメールをいただいています。
 東大教養学部で哲学を研究している藤岡俊博さんが、同僚たちの書いた『東大連続講義・歴史学の思考法』(東京大学出版会)の書評の中で、私との思い出を書いているのです。藤岡さんは手紙を添えて、教養学部報を私に送ってくれました。そのくだりを引用します。

「最後に粗末な個人史に触れるのをお許しいただきたい。二十年前、文科三類に入学した当初の私は、高校の恩師である小川幸司先生に憧れ(先生は現在、長野県蘇南高等学校長で、歴史教育に関して積極的に発言されている)、西洋史学科への進学を考えていた。が、当時は歴史教科書をめぐる喧騒の真っ只中で、自己の顕揚と他者の軽視のために歴史を利用するひとたちを前に、私は歴史学に携わる気概をついにもてなかった。本書を通じて歴史学の思考法を学んでいたら、そして本書に示される先生方の「歴史への真摯さ」に接していれば、進路は違っていたのだろうか。歴史の食卓に「鱈・レバー」は並ばないと言うが、本書は私に、自分に訪れなかった過去を、別の誰かの未来として夢想する喜びを与えてくれる。」

 出会った教え子はみんなが大切なことは言うまでもありませんが、誰かが歴史学を研究する人になってほしいという願いが、私にもないわけではありません。高校という学び舎の中で、対立する歴史認識の中で言説の正しさの根拠になりうるものはあるのかなど、多くのことを真摯に語り合った教え子が、藤岡さんでした。
 西洋史学科に進まなかった藤岡さんは、レヴィナスの哲学についての優れた研究書を出版し、先ごろレヴィナスの主著『全体性と無限』の個人訳(レヴィナスの息遣いが聞こえるような素晴らしい訳!)を世に問いました。私自身の歴史研究の根底をなす「他者とはどのような存在なのか」という問いに、藤岡さんは「応答」を投げかけてくれます。教え子にバトンを渡すということは、同じ道に進むということではなくて、教え子が自分の先生になっていくことなのだと思います。
 藤岡さんの書評の結びを、少し改作して私の思いを表現しますね。

 「歴史の食卓に「鱈・レバー」は並ばないと言うが、「教え子」は私に、自分に訪れなかった過去を、別の誰かの未来として夢想する喜びを与えてくれる。」
「教え子にバトンを渡す」