「漱石の小説をめぐって問いをたてる」

 2年の現代文Bの授業(横山先生が担当)で、夏目漱石の『こころ』を読んでいます。この小説を高校生が読むのは、私が高校生の頃と変わらぬ光景です。(ちなみに高校時代の私は、『漱石全集』を買い込んで、『行人』を愛読していました。)

 私の頃と授業がまったく違うのは、『こころ』をいくつかの部分にわけて、班ごとに協働的な学びを進めている点です。特に、各班が自分たちの担当部分のなかで、読み進めていく中で鍵になりそうな点を「問い」の形で表現して、その投げかけられた問いをクラスみんなで考える学びをしています。
 「なぜ奥さんの調子は、『まるで私の気分に入り込めないような軽いもの』だったのだろうか。」という問いを投げかけた班がありました。いいセンスの問いだなあと思いました。それをクラス全員が一生懸命考えている光景も、とてもよかった。
 横山先生のファシリテートのもと、生徒が主体となって考える国語の授業が展開されているのでした。

 何年ぶりかで『こころ』を読み返してみると、「私」の「K」に対する一方的な想像(思い込み)が「私」を行動にかりたて、「私」が追いつめられていくという、近代的自我の悲劇が描かれています。シェイクスピアの『マクベス』を連想してしまいます。(たしか高校時代の私もそんなことを考えていました。)
 そして改めて「私」の一方的な思い込みの対象のなかに「女性」が不在であるという、このジェンダー感覚は何なのだろうかという、戸惑いを覚えたのでした。
 授業の後、校長室で横山先生と『こころ』をめぐって、そんな対話をしました。生徒も問いを作るし、私たちも問いを作る。そんな学校でありたいと思います。
「漱石の小説をめぐって問いをたてる」