「GWの読書の中からこの一冊」

 長野道を北に走って明科トンネルから出た時に、正面に見えてくる秀麗な尖峰が「会田虚空蔵山(会田富士)」です。標高こそ1139メートルに過ぎませんが、山体や周囲に洞窟や巨岩に係る幾つもの宗教施設をもち、山城としての役割も担った、信仰の山です。私もこの山に登ったとき、中腹の岩屋神社や山頂直下の巨岩の迫力に感嘆し、さらには頂からの眺望に深く心を動かされました。
 登山をしていると、上田の虚空蔵山や独鈷山麓の虚空蔵堂、飯田の虚空蔵山(風越山の前衛峰)など、印象的な山岳景観のなかで「虚空蔵(こくぞう)」の文字に出会います。

 本書は、長野県立歴史館の笹本館長が「会田虚空蔵山」の信仰を分析し、県内そして全国の虚空蔵山・虚空蔵信仰のなかにそれを位置付け、さらには全国の霊山信仰・洞窟巨岩信仰との比較を試みた600ページを超える大著です。
 膨大な史料・先行文献を読み解き、緻密な現地調査を重ねながら、著者は山岳信仰がどのように形成され、発展し、やがては衰退していったかを鮮やかに描き出しました。
 山岳という「景観そのもの、及びその景観に対する感性そのもの」を歴史分析の対象とするときに浮かび上がってくるのは、人が雄大な自然に何を願って生きてきたかという「いのち」のありようです。自らが万能であるかのように錯覚している現代文明のなかで私たちが忘れつつある、森羅万象とつながっている「いのち」のありように、私たちは本書によって再度気づかされます。そして私たちを包み込んでくれている山岳の景観が、ただの風景から「いのち」について語りかけてくれるような存在に変貌していきます。

 虚空蔵とは、仏教の教理で言えば、「虚空のように無限の慈悲を現わす菩薩」(中村元)に対する信仰です。しかしその根源には、①自然災害から安全性を確保したいという願い、②水や風が安定することで食糧を確保したいという願い、③愛する死者と再度会いたいという願いなどが存在すると著者は考察します。
 「会田虚空蔵山」は、秀麗で目立つ山容をもち、磐座と思われる巨岩があり、水や風の信仰とのつながりがある点において、富士山のような全国的知名度はないものの身近な「地域」における山岳信仰の典型であったと位置付けられます。

 私には、諏訪の守屋山との比較がことに印象的でした。台地形の山容をもち、水や風と結びついた山岳信仰の対象であったという点で二つの山は共通しているものの、守屋山は、これを神体山とする諏訪大社が記紀神話と結合することで、信仰の形を大きく変えながらも後世に継承されてきました。著者は、守屋山こそ諏訪の人々の原初の信仰対象であったことを、上社本宮の神楽殿と拝殿が一直線に配置されていない景観などから考察・復元しています。
 他にも、戸隠山と善光寺、霧訪山と小野神社など、本書によって眼前の信仰の原初形態が復元され、宗教にこめた人々の「願い」が、より身近なものとして蘇ってきます。

 本書を読んだ人は、世界の姿がいっそう豊かな意味あるものとして見えてくるようになるでしょう。
 私は本書と出会えた幸せを、静かにいつまでも抱き続けたいと思っています。
(岩田書院、20224月刊、608頁、16800円+税)
「GWの読書の中からこの一冊」