「人々の幸せのために生きていれば、必ず仲間に出会える」
Posted by 蘇南高等学校長.
2023年03月04日15:07
本日、蘇南高校の第68回卒業式を挙行しました。3年ぶりに大勢の来賓・制限なしの保護者のご列席をいただいての開催です。
卒業生は、総合学科に転換してから最も多い67名。担任の太田先生、田畑先生が先導しながら、大人の表情になった卒業生が入場しました。

答辞は前生徒会長の上野さんが行いました。
「高校生活は最初から休校とともに始まり、コロナの影響を受け、あこがれの高校生活の日常は強く制限されてきました。(略)でも生徒会長として、なんとか抑制された生活を変えたいと思い、ハピネス・チャージ(地域ボランティア)や文化祭の地域物産店(売り上げをウクライナ支援に寄付)などを試みました。私は高校生活で、「仲間の大切さ」と「挑戦することの大切さ」を学び、これまで本当に濃い3年間を過ごすことができたと思います。」
上野さんの「濃い3年間」ということばに、この生徒たちの日々のすべてが凝縮されていると思いました。そして仲間と挑戦の大切さこそ、人生の核になるものです。
こんなに凛として自分のことを語っている卒業生が目の前にいました。

来賓の向井南木曽町長さんからは、「皆さんの若い力をふるさとのために貸してほしい。これからもふるさとと何らかの形でかかわってほしい。」とメッセージをいただきました。

私の式辞「モスクワはどこにある?」は、卒業生への「最終講義」です。
戦前にフランス経由でソ連に渡り、スターリン独裁の粛清にあって3年半の強制労働を奇跡的に生き延び、日本に帰国してからは陸軍で働き、太平洋戦争末期にふるさとの南木曽に戻ってきた、勝野金政さんのことを考えました。
戦後、南木曽に学校を作った勝野さんですが、たちまち行き詰まり、工場も土石流で流されました。それでも木材会社を懸命に経営し、亡くなるときに「モスクワ」とつぶやいて、ひとすじの涙を流したそうです。「モスクワ」とは現実の首都ではなく、勝野さんが思い描いた理想の街のことだと思われます。
勝野さんが亡くなって37年目に、卒業生の皆さんが蘇南高校に入学し、勝野さんほどの生死の極限ではないまでも、不自由な3年間を送りました。そして人々の幸せのためにできることを熱心に探究し、国境の向こうで苦しむ人々のために行動をしました。ヒューマニズムとインターナショナリズムという勝野さんの夢「モスクワ」は、いつのまにか蘇南高校の生徒たちの心の中に育まれていたのでした。
人々の幸せのために生きていれば、必ず仲間に出会える。皆さんが時空を超えて勝野さんと出会ったように、です。
(式辞原稿はコチラです。)
https://www.nagano-c.ed.jp/sonan-hs/pdf/20230304_sotugyousiki_sikiji.pdf
これは生徒たちとの3年間で私が学んだことでした。

卒業生は、総合学科に転換してから最も多い67名。担任の太田先生、田畑先生が先導しながら、大人の表情になった卒業生が入場しました。
答辞は前生徒会長の上野さんが行いました。
「高校生活は最初から休校とともに始まり、コロナの影響を受け、あこがれの高校生活の日常は強く制限されてきました。(略)でも生徒会長として、なんとか抑制された生活を変えたいと思い、ハピネス・チャージ(地域ボランティア)や文化祭の地域物産店(売り上げをウクライナ支援に寄付)などを試みました。私は高校生活で、「仲間の大切さ」と「挑戦することの大切さ」を学び、これまで本当に濃い3年間を過ごすことができたと思います。」
上野さんの「濃い3年間」ということばに、この生徒たちの日々のすべてが凝縮されていると思いました。そして仲間と挑戦の大切さこそ、人生の核になるものです。
こんなに凛として自分のことを語っている卒業生が目の前にいました。
来賓の向井南木曽町長さんからは、「皆さんの若い力をふるさとのために貸してほしい。これからもふるさとと何らかの形でかかわってほしい。」とメッセージをいただきました。
私の式辞「モスクワはどこにある?」は、卒業生への「最終講義」です。
戦前にフランス経由でソ連に渡り、スターリン独裁の粛清にあって3年半の強制労働を奇跡的に生き延び、日本に帰国してからは陸軍で働き、太平洋戦争末期にふるさとの南木曽に戻ってきた、勝野金政さんのことを考えました。
戦後、南木曽に学校を作った勝野さんですが、たちまち行き詰まり、工場も土石流で流されました。それでも木材会社を懸命に経営し、亡くなるときに「モスクワ」とつぶやいて、ひとすじの涙を流したそうです。「モスクワ」とは現実の首都ではなく、勝野さんが思い描いた理想の街のことだと思われます。
勝野さんが亡くなって37年目に、卒業生の皆さんが蘇南高校に入学し、勝野さんほどの生死の極限ではないまでも、不自由な3年間を送りました。そして人々の幸せのためにできることを熱心に探究し、国境の向こうで苦しむ人々のために行動をしました。ヒューマニズムとインターナショナリズムという勝野さんの夢「モスクワ」は、いつのまにか蘇南高校の生徒たちの心の中に育まれていたのでした。
人々の幸せのために生きていれば、必ず仲間に出会える。皆さんが時空を超えて勝野さんと出会ったように、です。
(式辞原稿はコチラです。)
https://www.nagano-c.ed.jp/sonan-hs/pdf/20230304_sotugyousiki_sikiji.pdf
これは生徒たちとの3年間で私が学んだことでした。
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